若松城(鶴ケ城)です。こちらの桜はまだ何とか残っていました。
城内には千利休の子・少庵が建てたと言われる茶室『麟閣』があります。
今からおよそ400年前、わが国茶道の大成者である千利休は、豊臣秀吉の怒りに触れ 死を命じられました。 この時、豊臣秀吉の怒りが千家一族へ及ぶのを恐れた会津領 主 蒲生氏郷(がもううじさと)は利休の子、少庵を会津に匿い千家が再興できるよう に秀吉に願い出たのです。 その結果、秀吉の怒りが解け千家再興が許されました。 この蒲生氏郷の恩義に報いるべく少庵が建てた茶室が「麟閣」と伝えられています。 また、再興が許されたのち千少庵の孫により、武者小路千家(むしゃこうじせんけ)、 表千家、裏千家の三千家が興された現在の隆盛を見るにいたりました。 このように「麟閣」は千家再興の地として茶人に知られ、その由をもって他の茶室には ない武者小路千家・表千家・裏千家、各家元の扁額が揚げられています。
荒城の月」を作詞した土井晩翠は、1898年(明治31年)に東京音楽学校の依頼 により、「荒城の月」を作詞した。 土井晩翠は「荒城の月」のモデルを明かしていなかったが、1946年(昭和21年) に会津高等女学校で公演したさい、「荒城の月」のモデルが会津若松城(鶴ヶ城) であることを明かした。 土井晩翠は、高校時代に修学旅行で会津若松城を訪れており、会津若松城を連想 して「荒城の月」を作詞したという。 このため、土井晩翠の公演後に急遽、会津若松城に「荒城の月」の歌碑が設置す る計画が持ち上がり、1947年(昭和22年)6月5日に、作詞した土井晩翠夫婦を 招いて、除幕式が行われた。